花 子 の イ タ リ ア 旅 情   1997.11.26〜12.3


 お元気ですか。平成10年も明けて、早くも1カ月が過ぎようとしています。我が家の向かいの丘陵地帯を走る、高速山陽道。その麓を見え隠れしながら昔からの道。田圃のど真ん中を一直線に北へ延びる、R53のバイパス。そして、家の直ぐ下にはR53と、車の流れは24時間止むことを知りません。丘陵地の西側には、岡山空港もあり、離発着の機影を目にすることもあります。ジェット機の残す微かな音に、昨年の晩秋から初冬にかけて、訪れることができました「イタリアルネサンスの足跡を尋ねて」の旅を想い出します。

 いざ、イタリアへ! 関空から

 11月26日の正午、関空からJAL747の北回りで飛び立ち、ハバロフスクを過ぎてからは、果てしなく続く白い山脈と、シベリヤの荒野を鳥瞰し、バルト海、ドイツ上空を経て、無事ミラノ空港に軟着陸。8時間の時差の為、同じく11月26日の16時15分の到着と言う次第です。8年前、ドイツ、フランスへの旅はシンガポール経由でしたので、それに比べると随分速く感じました。
 気温10度Cのミラノ空港に降り立ち、手続きをすませて、迎えのバスでホテルに直行。なだらかな丘陵地を走り、市街地に入ると、嗚呼、再びヨーロツパの土を踏むことが叶ったのだと、暮れなずむ車窓からの風景を眺めながら、感無量でした。

 ミラノに到着。再びヨーロツパの土を踏む

 ホテルに入って、若い小柄な添乗員の、溝内康代嬢の説明や注意を聞き、9階の私たちの部屋の扉を開け、届いていたスーツケースと共にIN!。早速に熱いお茶をと、持参のポットにスイッチオンしたのですがお湯になってくれません。ポットの付属のアダプターのボルトは、200と240。イタリアのVは220で残念ながらお湯になってくれません。無事到着のTELを主人に入れた時、あれこれと指示してくれたのですが、駄目なものは駄目で諦めました。
 ところで、同室の同行者は、急な誘いにも拘わらず、「行く!」と二つ返事で参加の寺田夫人です。大らかな彼女はベッドに横になるやいなや、伴奏付きの白河夜船。寝たか寝なんだか状態の儘の私は、時々カーテンそっと開けてみてはしながら、ミラノの朝を迎えました。
 身支度整えて、ヨーロピアンスタイルのモーニングの後、バスでホテルを出発。ツアーの一行は女性ばかりの15名です。
 最初に訪れたのは、14世紀当時の支配者スフォルツア家が建てたと言われる、塔の両端に翼のあるスフォルツア城。ミケランジェロのピエタ像の見学を期待していた城の中の博物館は運悪くストライキの為に入館叶わず残念でした。
 傘の要らない程度の小雨の中、城だけ現地のガイドさんの説明を聞きながら、鉄の玉ならぬ、石の弾丸が草むらに積み残してあったりするのを見学し、昔の攻防を偲びました。エマヌエーレ2世による、オーストリアから、ミラノ解放を祝って建てられたと言われる、平和のアーチもカメラに納め、スカラ座へ。
 オペラ発祥の地イタリアには、あちこちにオペラ座があるのですが、このスカラ座は、オペラの殿堂として世界的に最も有名でしょうか。オペラの見物はツアーに組まれてありませんので、ガイドブックに載っているような体験をする事はできませんでしたが、ドレスアップして一度は客席に座りたいものですね。
 スカラ座の向かいには市庁舎があり、ヨーロッパ独特の広場には、見上げるばかりの高さのレオナルド・ダ・ヴィンチの像が足元に弟子達を従えて立っています。勿論大理石の像です。

 ドゥオーモに圧倒されて

 そこから少し歩いて、ヴイットリオ・エマヌエーレ2世通りにたどり着くと、そこはドームの径が39mあると言われる鉄製の円蓋と、美しいガラスに覆われた歩行者天国のアーケード街。プラダのブティックをはじめ、お洒落なファッショングッズの店、レストラン、銀行等が放射線状に並び、遊び心をくすぐるお店の佇まいもさることながら、モザイク模様に敷き詰められた大理石の舗道、見上げれば美しいガラスの天井に私の心は奪われてしまいました。が、もっと身も心も奪われる建物が、アーケードを出たとたんに目の前に現れたのです。
 それは荘厳としか言い様のない、世界最大級のゴシック建築のドゥオーモ。ラテン語で神の家を意味する最も位の高い教会のドゥオーモに圧倒されました。広場には絨毯を敷いてあるかのごとくの鳩の群。その群が時々一斉に飛び立ち、ドゥオーモや広場の中程に建つエマヌエーレ2世の騎馬像の上あたりを旋回します。そして、鳩に負けない観光客の数。
 ドゥオーモの高さは110mと言われ、天に向かう尖塔は数知れず、それらに施された彫刻の数は3、400とか、唯見上げて皆さん溜息のみ出、信仰の力に脱帽のみです。中でも、中央近くの尖塔の先の聖母像は、ミラノ市民にマドンニーナと愛されているそうで、その金色の像は時を置いて向きを変えるのです。
 ガイドさんに案内されて寺院の中へ。一歩足を入れ、またもや嘆息と感嘆の声だけが出てきます。聖母マリアに捧げるために、500年に近い歳月をかけて建てられた巨大なドゥオーモ。ふた抱えもありそうな、大理石の柱が52本、高い天井に向かって並び圧倒されます。足元に目をやると、これ又大理石で敷き詰められた美しい床。壁に隙間なく施された彫刻、陽の光に刻々と彩を変えるステンドグラスの数々は、聖書を物語るとのガイドさんの説明に、信者に非ずの私ですが身も心も洗われそうでした。

 12人のどよめきが…「最後の晩餐」

 オプションで、アウトレットに行った人達に別れて、寺田夫人と私はミラノへ来た目的の一つ聖マリア・デッレ・グラツィエ教会へと向かいました。そこには、期待のダ・ヴィンチの「最後の晩餐」がある筈です。溝内さんに、教わったとおりにTAXIで行き、16,000リラ払って無事に到着。パリでもそうでしたが、こちらのTAXI、日本のように綺麗でも自動ドアでもありません。でもドライバーさんは陽気で、「ボンジョールノ!」と笑顔で応対してくれましたよ。午後には休憩には入ると聞いていましたので、ランチは後にして駆け付けた甲斐があって、鑑賞の為に並んでいる行列に加わることができました。
 入館を待つ間、教会の前で絵ハガキやガイドブックを売る面白い小父さんと束の間の愉しい会話?のやりとりがあり、一緒に写真も撮ったりして。「千円、ヤスイヨ、ヤスイヨ」に付き合ってガイドブックを求めると、「オマケ、オマケ」と言って絵ハガキを5枚くれ、更に「オマケ」と言って「最後の晩餐」の大きなカードも手渡してくれたので「グラーチェ」と私。
 入館料は12,000リラで、ドアが開くと7〜8人ずつ入れてから、自動ドアーが閉まります。中庭を抜け、かつての修道院の食堂に通じる部屋に入ると、正面にあの「最後の晩餐」がありました。教科書や図録でお馴染みのキリストを中心に裏切りを予言されたユダを始め、12人のどよめきが聞こえて来そうな「最後の晩餐」は、食堂の正面の壁一杯に描かれていた壁画だったのです。カビが生える為に、何度も修復され現在も修復中でしたので、足場が組んでありましたが昼休みだったらしく、それらしき人の姿はありませんでした。近づいたり、ずっと部屋の端迄離れたりして、ゆっくり鑑賞して外に出ました。建物はトスカーナ風の優雅な教会で、34年の歳月を掛けて完成したとか。
 空腹に気がついた2人のエトランゼは教会前のカフェバーに入り、「ボンジョルノ!、ペル・ファヴォーレ、クアント・コスタ?」etc。何とか片言以前のジェスチャーで、イタリア式サンドウィッチと、熱いコーヒーにありつけました。サンドもカプチーノも疲れと空腹には「オオ、デリシャス」でありまして写真を見ても、満足そうにサンドを頬張っている2人です。隣の席ではアラブ系の夫婦が、ゆっくりとランチを楽しんでいる風でした。

 ミラコレの街を気侭に歩く

 折角ミラコレの街に来ているのだからと、2人して勇気を出して街を歩いてみました。センス溢れるウインドウの飾り付け、ゴシック風な建物の並ぶ通りを気侭に歩いてみました。さすがミラコレの街、行き交う女性もですが特に中年の男性のコート姿のどうしてどうして颯爽として格好いいのに目が点になつてしまいました。帰国してイタリアに詳しい神戸の友人にその事を話すと、彼女も大いに賛同してくれ、それだけでも観賞にあたいすると。初めて見る種類も解らない大きな犬を散歩させている男性にも何度か出会い、少しばかり怖い思いもしたのですよ。それでも○○通り、××通りとうろうろして、ショッピングも適当に楽しみ、再びTAXIでドゥオーモ前に戻りました。買い物した紙袋を持て余しながらも自由行動の2人ですので、ゆっくりと写真を撮ったり、改めてドウォーモを眺めたりしました。広場には、相変わらず鳩の群れと、人の群れ。
 のどの渇きと足の疲れを癒すために、エマヌエール通りのカフェバーのテラスの客となり、プレッソを注文し行き交う人を眺めながら待ちました。コーヒーは小ぶりのお洒落なカップで運ばれて来ましたが、口にしたとたん2人の言葉は「おいしい!」。4,500リラで、円に換算すると360円位。
 夕暮れも迫って来たので、横丁のカフェでワインとウオーターを求め、ワインはちゃんと栓も抜いてもらってTAXIに乗り、見覚えのある建物の側や交差点を右左と曲がり、無事ホテルBLAIS&FRANCISに到着。フロントで鍵を貰って部屋に戻り入浴洗髪して、カルチャーショックの1日の疲れを消すべくワインで乾杯!しました。添乗員さんにも何もトラブルの無かったことを報告して、安心してもらいました。
 今夜はアルコールの力を借りて昨夜の分までぐっすり寝るべく、早々に8時30分にベッドに入り、それでもうとうとしていると何やら廊下が騒々しい様子。何事ならんと身構えていると、遂に私たちの部屋をノックするのです。横になると直ちに吹奏楽器に変身する彼女を起こし、恐る恐る中から窺うと日本語で「鍵が無いので……」とお年寄りの声。そうです、ツアーの一行の中に81歳になるという腰も90度近く曲がったお婆ちゃんがいたのです。彼女の声と判り安心してドアを開けると、慌てた様子の彼女の連れの中年女性が現れて「すみません」の一言も無く、自分たちの部屋へ連れ帰り一件落着。然しその老女が次の日の夕刻ヴェネチアで、添乗員さんと私達を不安と心配のどん底に落とす事になるのです。
 この騒ぎの為、折角のアルコールもすっかり醒めて、またしても七転八転の不眠の私を他所に、寺田夫人は何事も無かったごとく例のリサイタルを続け、アルプスとポー川に挟まれた北の都ミラノの夜は更けて行きました。

 ヴェローナへ、陽気なバスツアー

 11月28日、3日目の朝を迎え、ヴェローナとヴェネツィアを訪ねるべく8時にホテルを出発。バスのドライバーさんは7日間同じ人で、頭髪は見事描いたように円形に後退し、運転席で何時も陽気に私達を「ボンジョルノ!」と迎えてくれました。
 イタリアは高速道が網羅されていて、目的地の近くまで殆ど高速道を走ります。ベルガモ空港付近で霧が晴れ、なだらかな平原が続きます。左手には遠くアルプスに連なる山も見え隠れして、この辺りは湖水地帯でコモ湖も近いと添乗員さんの説明を聞きながら、車窓からの風景に見とれていました。
 10時15分、アジノ川に沿って中世の面影を残し、シェークスピアのロミオとジュリエット物語の舞台になつたと伝説のある町ヴェローナに入りました。早速、石畳の道を辿って悲劇の始まりの舞台装置なる所のバルコニーを尋ねましたが、そこは意外に小さな舞台でした。バルコニーの前にある女神の像の左の胸に触れると幸せになれると伝えられ、順番を待つ人でいっぱい。私も欲張って、もっと幸せをと触れたりして集合場所へと急ぎました。
 パトドゥーア門、スカラジ家の庭、サンマルコの円柱等、バスから見学。ローマのコロッセオの原形とも言われ、収容人員45,000人で、現在オペラ公演もされると言う、円形劇場にも立ち寄りました。
 バスは再び高速道をひた走り、ヴェネツィア・ビエンナーレ、ヴェネツィア映画祭、ヴェネツィア・カーニバル、そしてヴェネツィアン・グラス等々、更にはマルコポーロ物語、シェークスピアの傑作の一つ「ヴェニスの商人」と、何故か懐かしい感じのするヴェネツィアへと急ぎます。

 ヴェネツィアは「アドリア海の真珠」

 水の都ヴェネツィアへは、バスを降りて高速艇パポレットで渡るのです。波を蹴って船が進むうち、薄曇りの空と潮の香りの中に、「アドリア海の真珠」と賞される、水の都の建物群がまるで蜃気楼のように近づいて来ました。そこは道路の代わりに運河を張り巡らせ、15世紀にはフィレンツェに次ぐルネサンスの栄えた処、18世紀にはナポレオン・ボナパルトにも占領されたこともあり、20世紀の現在は泥に悩まされ、少しづつ海に侵されているという不思議な町ヴェネツィア通称ヴェニス。
 10分ばかりで船を下り、少し歩くとサン・マルコ広場。「ウワーッ」と、心の中で思わず叫ぶ私。映画や小説に度々登場し、知ってるつもりだったイメージを遥かに越える広さと美しさ。150m×82mの石畳の広場は、東側正面に福音書の作者聖マルコを祭る大寺院、残りの3方向は、アーケード付きの商店街、行政長官府と美術館、そして南北の両端に鐘楼と時計台を配してあるのです。広場には鳩が群れ、カフェテラスの椅子が並び微かに漂う潮風、石畳と正面のサン・マルコ寺院の豪華絢爛さは、ナポレオンをして「世界中で最も美しい客間」と言わしめた、とガイドブックにありましたが、なるほどと頷けました。
 時間の関係で残念ながら中へ入ることは叶いませんでしたが、サン・マルコ寺院は金箔をふんだんに使ってある為に、「黄金の教会」とも呼ばれています。ビザンチン様式の建物は5つの円蓋に尖塔、正面上方に金色の4頭の馬の像があり、他の彫刻もレースのようで、風が吹けば揺れるのではないかと思われるほどの繊細さです。当時の職人達はどんな思いであのような技を駆使したのでしょうか。

 ゴンドラで合唱、♪サンタールチーア♪

 ヴェニスと言えば勿論ゴンドラ。歌に小説に映画にと、最もロマンチックな乗り物のイメージがあり、しかもそれは遠い異国の物語でのこと、と思っていましたのにそのゴンドラに乗ることができました。
 そこは以外に簡単な桟橋で、賑やかに漕ぎ手達が声を交わす中、観光客を乗せて次々に運河に滑り出していきます。ガイドブックを見ると、ヴェニスは市街を2分して流れるS字状の大運河と、そこから枝分かれしている45の運河が道路の役割をし云々とあります。本当に網の目のように繋がっているのです。
 私達も卒業旅行中の女子大生2人と相乗りして、背の高い美形の漕ぎ手によってサンタ・ルチアよろしく水上の人となりました。美男の船頭さんに若い2人は大喜びで、両岸の様々な石の建物よりカメラは常に彼を狙らっている様子。舳先すれすれに立って巧みに竿を操る技は本当に格好よくって、おばさん2人もハッピイ!でした。 
 運河の狭いところはゴンドラがやっとすれ違える程の処もあり、わざとぶつかりそうになるパフォーマンスや、曲がり角でも建物すれすれに竿をさして客を喜ばしてくれるのです。橋の下を潜る度に、映画「旅情」の一シーンを想い出しましたよ。そして、♪いざや行かん船を漕ぎてサンタールチーア……と、皆で合唱しながらゴンドラの旅もフィナーレに近くなり、いつの間にか大運河に漕ぎ出ていました。人も物資も全て船で運ばれる正に水の都の大運河は、救急車、消防車、パトカー、タクシー、水上バス、そして観光客を乗せたゴンドラと賑やかに往来しています。生涯を終えた人の亡骸も、喪章を付けたゴンドラで墓地の島サン・ミケーレ島に運ばれるのだそうです。
 運河の両岸には、かつての貴族の館や尖塔を持つ教会が並びゴンドラの客の目を楽しませてくれます。そして、16世紀に4年間かかって架設され、世界でも有名な橋の1つリアルト橋に近付くと、何やら説明してくれるのですが意味不明、急いでガイドブックを開く私でした。長さ48m、幅22m、高さ7m近く、軍船も通過できるようにと太鼓橋状になっていて、橋の上は現在は土産物屋の並ぶ観光の名所になっています。勿論見事なその石の橋の下を通過し、やがて桟橋へと向かい暫しのゴンドラの旅に別れを告げ船を下りました。そうそう、日本のテレカを欲しがる船頭さんに、持ち合わせの吉備津神社のそれをあげると「グラーチェ」と喜んでくれました。

 ドゥカーレ宮殿では実物の貞操帯

 ゴンドラを降りて少し歩くとドゥカーレ宮殿。ゴシック建築の傑作の1つと言われるこの宮殿は白と淡いピンクの大理石造りの外観で、サンマルコ広場の続きで海に面して建っています。共和国時代の総督の館でもあり、中は豪華さと怖い程の装飾とで埋め尽くされています。ガイドの国家試験をパスしているという、言葉遣いも丁寧で早口ながらも良くわかる説明、赤いコートも素敵な日本人女性の案内に従って次々と部屋を巡りました。
 当時の武器武具が美術品のごとく飾られている部屋。子供の頃夢中で読んだ「鉄仮面」物語を思い出させる見事な鉄の鎧甲、紋様の美しい楯、天をも突き刺しそうな槍そして太刀。日本の武具もそうですが戦の道具を後世美術品として、鑑賞されることになろうとは。
 それから興味深き逸品もガラス越しに発見。それは中世の物語などに、必ずと言っていいくらいに出てくる貞操帯でした。勿論初めて見た実物のそれは鉄製の想像を絶するデザインで、思い出すのもおぞましいのですが本当に身に着けさせていたのでしょうか。他人が鍵を開けようとすると、その指が千切れる様にも設計されているのですよ。
 元老院の間、裁判の間は壁画も天井画も豪華絢爛で時の権力の凄さを思わせます。罪状の有無を言わせぬ裁判で囚われの身となった者は、そのまま地下の牢獄へと送られた恐怖の扉があります。「天国」と題された大壁画のある「大評議会の間」と裏腹に、罪人とされた人々が生涯陽の当たらぬ牢獄へ送られる時、最後に外界を眺めて嘆き悲しんだと伝えられる「溜息の橋」は、宮殿と地下牢を結ぶ運河に架かっています。ひんやりとした石の牢獄、鉄格子の彼方から罪人とされた人達の怨念が伝わって来そうでした。
 幻想的なロケーションを散策

 6時30分、外に出ると初冬の日暮れは早く、サンマルコ広場を囲む建物には灯りが入り、何とも幻想的なロケーションになっておりました。広場を横切ってラグーナ・ムラノ・ガラス工房に行き、ヴエネツィアガラス製品造りの工程を見学。美術館の様に陳列してある部屋では旅の記念に主人と私のために、ワイングラスを求めました。
 自由時間が2時間弱あるので気の合ったお仲間同士5人ばかりで、のどの渇きと見学の疲れを癒すために、ガイドブックにも載っていて広場に面した商店街にあるカフェ、フローリアンのドアを開けました。18世紀に開店し、ヴェネツィアで最もエレガントなカフェとやらで、成る程と頷けるインテリアと、接客態度。その昔バルザックを始め、幾多の作家や芸術家も通っていたともガイドブックに記されてあります。暫くはお喋りしながら、コーヒーや、お紅茶にケーキで疲れを癒し、ウェーターにカメラのシャッターお願いしたりして、お店を後にしました。勿論ウェーターにチップ渡して。
 残り時間は辺りを散策する事にして照明の美しい商店街を、気儘にウインドウショッピングしたり、女心を擽る素敵なアクセサリーのお店には「ブォナ・セーラ」と挨拶忘れずに入り、たどたどしい日本語で応対してくれる店員さん相手に、アクセサリーやネクタイ求めたりしました。多くの観光客とすれ違いながら路地からいったん広場へ、そこからまた路地へと迷子にならぬように、スリに狙われぬようにと気を付けながらカーニバルに因んだ様々な仮面や、繊細なレース編みの飾り付けなどを楽しんでいると、顔面蒼白、夜目にも判るほど血の気の失せた添乗員の溝内さんに出会ったのです。

 迷子になったお婆ちゃん

 聞けば、あの81歳のお婆ちゃんが連れの女性からもはぐれて、もう1時間近く見付からないのだとのこと。集まってきたツアーの人達で手分けして、暗い路地から運河の側と探してみましたが発見できません。警察や旅行会社のパリ支局にもスクランブル要請したので、取りあえず皆さんはホテルへとの添乗員さんの言葉に従って、彼女と連れの女性を残してガイドさんと私達は、高速艇とバスを乗り継いで今夜のホテルプラザへと向かいました。ヴェネツィアのシンボル羽の生えた獅子の像に、無事に見付かりますことを祈りながら。
 ホテルに着いてもヴェニスの話題より、迷子になったお婆ちゃんのことばかり。楽しみにしていたディナーも会話は途切れがちになり、イタリアンシーフードもワインもすんなりと喉を通過してくれません。ホテルはクラシックな造りで、安心感を与えてくれる重厚な部屋のドア、サニタリーのタイルもイターリアンな色彩とデザイン。ベッドカバーもカーテンも素敵で少しは気分も紛れましたが、添乗員さんからは依然として音沙汰ないまま夜は更けていくのでした。
 11月29日、午前4時半に目覚めてしまう私。寺田夫人も同じくで眠れぬ儘、昨夜からの出来事をあれこれと勝手に想像し、アガサ・クリスティ風、TVの事件物風、新聞の記事風と語り合って夜明けを待ちました。万が一最悪の事態のニュースが日本に流れても心配しないでと、主人にFAXかTELすることも考えましたがもう少し様子を見ることにしました。
 朝食の時間が来て、熱いコーヒーにやっと右脳も左脳も目を覚ましロビーに降りてみると、添乗員の溝内さんが放心状態で立っていました。尋ねると未だ見付からないとのこと。然し、昨夜20km離れた場所で、それらしき老婆を見かけたとの情報に一縷の望みを懸けていること、パリ支局から応援の人が来てくれるし地元の警察も非常に協力的であるしと、不安を抑えながら蒼白の顔の儘話してくれるのでした。
 次の目的地フィレンツェへと迎えのバスが来たので、捜索の為に再びヴェニスに引き返す添乗員さんと、連れの女性を残して霧雨の中を出発しました。今日から明日にかけてのガイドさんはサブリナ嬢で、日本語の良く判る美人で華奢で正に「麗しのサブリナ」を想わせましたがいつも陽気なドライバーさんも、今朝は心なしか「ボンジョルノ!」に元気がありません。彼も心配してくれているのです。
 深々と頭を下げてバスを見送る添乗員さんの心中を察して、大丈夫よ必ず無事に発見できるからねと皆でエールを送りました。

 憧れの地、イタリアはトスカーナ

 バスは高速道をフィレンツェに向かってひた走り、ヴーネット州からトスカーナ州へと進行します。私は何故か土地の名称に拘り憧れてしまうのです。フランスはプロバンス、スペインのアンダルシア、旧ソ連のコーカサス、そしてこのトスカーナ地方と、小説やエッセイ映像音楽等に触れる度に、何時の日か訪れる日の来ることを願っておりました。今その憧れの地イタリアはトスカーナにいるのです。バスは起伏に富みながら何処までもなだらかな丘陵地帯を快適に走りますが、ヴェニスに残してきた人達のことが頭をよぎり100パーセント楽しめません。
 11時サブリナさんの携帯に、無事お婆ちゃん発見の報せが入りました。バスの中は拍手と安堵の歓声で沸きました。彼女はあの曲がった腰で一晩中歩き続け、何処をどう歩いてか本土側にある鉄道の終着駅サンタ・ルチア駅で蹲っているのを発見されたのだそうです。信じられない距離をどんな思いで歩かれたのでしょう。大事をとって病院で手当をしているとのこと。本当に良かったねお婆ちゃん。
 一同安心して窓外の風景を楽しめるようになり、時々窓を打っていた小雨も止んでバスは高速道をひた走ります。左右に遠く近く城郭都市らしきものも丘陵地に見え隠れし、小さな教会の尖塔、天に向かって大小の糸杉の姿も新鮮で、バスのスピードが恨めしく思えました。紅葉の盛りの頃は見事だったろうと思われ、日本の晩秋の風景それも伯備線沿線の渓谷によく似た場所もありました。走りながらのシャッターチャンスは駄目と知りながらカメラを構え、飽きる事なき風景に心奪われている内に、標識の賑やかに並ぶ一般道にバスは入っておりました。松並木が続き少し葉を残したマロニエの並木に変わった頃、左手の木々の間から写真集やTVの画面で見覚えのある、赤茶色の屋根瓦の街が見えてきました。そうです、花の都フィレンツェの丘に着いたのです。

 花の都フィレンツェ

 ミケランジェロ作ダビデの像のレプリカの立つ観光用の丘の上からは、背景にバロック音楽が流れて来そうなフィレンツェの町が一望できます。アルノ川の向こうに、あの花の大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレ通称ドゥオーモ。フィレンツェで最も有名な、サンタ・クローチェ教会。ヴェッキオ宮殿の聳える塔と、その尖塔の上の黄金のライオン。雨上がりのそのロケーションは、薄い雲の懸かった山並みを背景に絵画そのもので、今フィレンツェの丘の上からそれを眺めている自分が信じられませんでした。
 ホテル、メディテラネオに入り小休止の後、予約してあるレストランへ昼食をとりにと出かけたのですが、なにしろ添乗員無しの行動です。しかもガイド嬢のサブリナさんは初めてのレストランらしく、裏通りに入ってからは地図を頼りに探すのですが、なかなか見付かりません。イタリアは雨期で小雨が降ったり止んだりの中、石畳を踏みしめながら対向車に気を付けながらの、尋ね人ならぬ尋ねレストラン。もう少しでリタイアしそうになった時、前方であった!との合図にほっとしましたが、1キロ以上は歩いたような気がしました。やっとの思いで旧貴族の館だったとパンフレットに記された、そのレストランの客になることができました。空腹だった筈なのに、運ばれてくるトスカーナ風料理の量の多さに殆どをパスしてしまった私は、唯一ワインだけに救われたのです。デザートのテラミスにもギブアップしてしまいまして、どうやら私には給食をしっかり摂る訓練ができてないようですね。
 食事の後に部屋を自由に見学することができ、貴族の館にふさわしい贅を尽くしたそれらを見て回りました。金襴のクロス、きらびやかとしか言い様のないシャンデリヤ、刺繍で埋め尽くされたカーテン、館に住んでいた人達の肖像画、ダンスの順番を待つための豪華な部屋等々、貴族の暮らしを偲び、一旦ホテルに戻りました。少し休みバスで花の大聖堂へと出かけました。

 花の大聖堂「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」

 サンタ・マリア・デル・フィオーレ文字通り花の大聖堂は赤い8角形の円蓋に尖塔を持つ、何となく見覚えのある姿で迎えてくれました。壁面は白、ピンク、ダークグリーンの大理石によって、見事なデザインで埋め尽くされています。見る角度によって変化する、ゴシック風の建物に圧倒されます。フィレンツェで生まれ、この大聖堂の設計者と言われるフィリッポ・ブルネッレスキの像が、建物の一角に天を仰ぐポーズで座っています。
 正面を見上げれば中央に幼いキリストを抱いたマリアの像、両側に3人づつの聖者の像がそれぞれ大理石の天蓋の下に並んでいます。中に入り8角形の遥か彼方の天井画に目眩を覚えました。近年15年の歳月をかけて修復された天井画は天国、地獄、死、最後の審判が描かれ、8つの窓と尖塔からの光に僅かな人工の灯りを加えて浮かびあがって見ることができます。ノンフラッシュで写したのですが、まあまあの状態で写っていて想い出のよすがになっています。
 大聖堂正面右側の高さ82mの四角形の鐘楼は、ジョットの鐘楼と呼ばれ大聖堂と同じ色の大理石で寄り添うように、しかも堂々と建っています。1334年から37年にかけて、ジョットがこの鐘楼の建築主任として携わったと言われています。
 フィレンツェの守護聖人洗礼者ヨハネに捧げられた、8角形の洗礼堂も直ぐ側にありました。同じく白とダークグリーンの大理石で造られ、金のレリーフを施した3つの扉があります。有名な東側の扉はミケランジェロが「天国の扉」と称した、旧約聖書物語の浮き彫りでギベルティの作品とか。聖書のことを詳しく知らない私でも、遠近法を用いた細やかなそのレリーフの前に立つと、物語はかくありきかと思ってしまいましたよ。えらく真剣な顔で扉を背にして写った私があります。
 扉の上部には曰くありげな3人の像が立っています。左側に天使の翼を付けた者、中央はキリストでしょうか、そして右側に十字架の杖を持ち右手をキリスト?の頭上に当てているのはヨハネなのでしょうか。

 イタリア・ルネサンスの粋、ウフィッツ美術館

 ウッフィツィ美術館は大聖堂から歩いて500mほどの処にあります。イタリア・ルネサンスの最高の美術品を集めたこの美術館を訪れることは、旅の目的の1つでもありましたので、はやる心を抑えながら石畳の道を急ぎました。
 世界でも屈指のこの美術館は建築家バザーリによって、最初はメディチ家の管理事務所として14年の歳月を費やして建てられ、後に富にあかしてコレクションされたルネサンスの絵画彫刻を展示されることになったのだそうです。アルノ川の側にコの字型の建物が、ヴェッキオ宮殿に隣接して建っています。
 毎年100万人に近い見学者が訪れ、入り口には常に長い行列ができ、1時間以上の待ち時間は珍しくないと言われ、先輩からもその様に聞かされていたのですが、幸運にも私達は10分で入館することができました。待ち時間の客相手の、似顔絵描きの姿もありました。
 展示は45の部屋と、其れを繋ぐ長い2本の廊下からなりたっているのですが、1歩足を踏み入れるとそこはもう壁も床も柱も美術品で埋め尽くされていて、足がなかなか前に進みません。エルメスのスカーフの模様を全て収集したかのような天井絵、柱や梁の彫り物、廊下の両脇の彫刻の数々。貴女もご存じのように、ルーブル美術館でも、心ゆくまで鑑賞するためには何日もかかるといわれ、ヴィーナスの像、モナリザの絵、ナポレオンの戴冠式の絵等、有名な作品しか鑑賞できなかったのですが、ここでも残念ながら、ガイドさんの後をついて行く他はありません。
 バザーリの設計による正面の階段をあがると、左側にレオナルド・ダ・ビンチや、ミケランジェロのデッサン版画があり、第1室から第6室までは殆ど聖書からの物語や、聖母子像の絵、第7室ではパオロ・ウッチェッロ「サン・ローマの戦い」が目に止まりました。15世紀半ばの遠近法や、戦の場での馬の迫力、中でも中央の白馬の白く丸い大きな尻が印象に残りました。第8室は、フィリッポ・リッピの作品で、「聖母子と聖者」「聖母戴冠」等、他の作家の物も殆ど聖母子に関する作品。

 お馴染み「春」と「ヴィーナス誕生」

 いよいよ第10・14室、かつて劇場の一部だった名残の枠組みが天井に残っているこの広い部屋は、ボッティチェッリの「受胎告知」「東方三賢王の礼拝」「ザクロの聖母」そして教科書でお馴染みのあの「春」と「ヴィーナス誕生」が待っていてくれました。ボッティチェッリの最高傑作と言われる「春」の前は矢張り見学者でいっぱい、それでも人波のとぎれた頃意外とゆっくり鑑賞することが叶いました。
 上部のたわわに実った果物の中央から、目隠しをしたキューピットが、今にも微風にゆれそうなヴェールに包まれて踊る3人の女神に弓矢を向け、中央には右手を少しあげて、しなやかに立つヴィーナス、左端にメルクリウス、右端から、春風の精と言われるゼピュロスと、それに追われるフローラ、そして花を撒く春の女神が、穏やかにそれでいてリズミカルにいきいきと描かれているのです。それぞれの足元には名も知れぬ草花が幾種類となく咲き乱れて溜息が漏れ、そのまま振り向けば「ヴィーナスの誕生」が。
 1486年頃、「春」に続いて同じくメディチ家のカステッロ荘のために描かれた「ヴィーナスの誕生」は、詩人アニョロ・ポリツィアノの詩、海から生まれたヴィーナスに則って描かれたと解説されているのですが、理由はともあれ大きな貝殻の上に片足を乗せ、ゼピュロスに吹かれるたわわな金髪を纏い、少し傾いて立つその姿は、ああこれが本物のヴィーナスの誕生なのだと納得しました。右側には春の精が赤いマントをヴィーナスに着せ懸けようとするかのように翻して、いずれも等身大に近く官能的に優雅に描かれているのです。フラッシュレスなら撮影は許されるのでシャッターの音がしきりでした。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」は第15室にありました。グレコの有名な「受胎告知」は倉敷大原美術館にあり度々接しているのですが、それとは又違った感じの「受胎告知」でした。何時か教育TVの「日曜美術館」で、「受胎告知」特集をやつていたのを貴女もご覧になったと思いますが、その時にも取り上げられていましたね。他にも何点か、作家の違う「受胎告知」の絵がこの館にはあります。

 横長の広々とした空間に彫り物のある小さなテーブルを挟んで、右手にマリア左側に羽を付けた天使が告知する構図はダ・ヴィンチ独特の遠景と穏やかさで、何と言っていいのか魅せられるのみでした。
 次々と展示室を巡りミケランジェロの「聖家族」の前でも釘付けになりました。これは額縁も彼の作品と言われていて円形の豪華な彫り物の額の中に、明るくダイナミックに描かれていて脳裏に焼きついています。ラファエロの自画像も忘れられません。あの何かを訴える様な視線が、今も私を追っかけます。ティツィアーノの「ウルヴィーノのヴィーナス」はヴェネツィア派の画家らしく暖かな色調、柔らかなタッチで横たわる裸婦をこよなく美しく官能的に描き、背景の二人の召使いと、うずくまる犬も印象的なのです。ゴヤの「マリア・テレザ・ディ・ボルボーネ」の幻想的な美しい婦人像にも足を止めてしまいました。 
 第2廊下の左側の窓から眺められるポンテ・ベッキオ橋、アルノ川と対岸の建物と二つの教会の尖塔、それに続くトスカーナのなだらかな丘陵地帯にカメラのシャッター押した私です。そして今、気が付いたのですが美術館発行のガイドブックに全く同じアングルの写真が載っているのです。プロの人もあの場所から撮るのですね。別の窓からベッキオ宮殿の尖塔と大聖堂を撮ったのもありです。
 第2廊下、第3廊下のギリシャ時代ローマ時代の複製も交えた彫刻や、気の遠くなるような天井画を眺めながら、バザーリの通路も溜息付きながら通過。出口近くの売店で少し買い物をして外に出ると、短い初冬の日は暮れて町には灯りがともっていました。見残したものは、今度来たとき見ましょう。

 レストラン「サバティーニ」でフルコース

 ホテルに戻りシャワー浴びて疲れを癒し、着替えをして今夜の楽しみのトスカーナ料理のレストランにと、TAXI呼んでもらい出かけました。ヴェニスから追っかけている筈の、例の3人衆の姿は未だ見えませんでしたので添乗員無しでピンチヒッターのサブリナさんの案内に身をまかせて。
 予約してあったレストラン「サバティーニ」の奥まったテーブルに案内された六人は、ワイン付きのフルコースをゆっくり楽しむことができました。勿論いつものようにオードブルの次のパスタで胃袋は満席になってしまった私ですが、美味しいワインと気持ちのいい日本語で語るサブリナさんとの会話が愉しくて、メインディッシュも半分くらいは何とかナイフとフォークを働かせました。彼女の流暢な日本語は、2年間の創価大学での留学とホームステイによるものなのですが、大の日本贔屓にもよります。又機会があれば是非日本で暮らしてみたいと語った、彼女の笑顔とイントネーションが忘れられません。少しばかりドレスアップして、上機嫌なポーズでカメラに収まっているフィレンツェの夜のオバタリアンをご想像ください。
 ホテルに戻ってみると、添乗員の溝内さんも無事に迷い子と一緒に合流していて1件落着。やれやれで、その夜は主人や友人に宛て、せっせと絵はがきしたためました。届いたでしょう? そして明日の朝忘れないようにと、枕銭の1000リラの用意をしてヴォナノッテ!。

 登山電車でオリビエートへ

 11月30日、全員揃って最後の目的地ローマへと出発進行!です。途中立ち寄る予定だったアッシジが、地震の後遺症で見学不可能とのことで急遽、古城の残る中世の町オリビエートになりました。名残惜しい花の都フィレンツェを後に、バスはトスカーナ州からアンブリア州はオリビエートに向かってひた走ります。風景は相変わらずなだらかに緩やかに耕作と牧草地とが続き、丘の上の集落と小さな教会が絵本のようにめくられて行きます。時々うとうとしながら2時間ぐらい走ったでしょうか。小さな町に付き、オリビエートへはここから登山電車に乗り換えとのこと。この土地に暮らす人々の足でもある登山電車に一緒に乗り、10分ばかりで到着。そこは中世にタイムスリップしたかのような素朴な石造りの民家、小雨に濡れた黒い石畳の道、路地の入り口には小さな泉、そしてお決まりの広場と教会がありました。丘の彼方から今にも白馬の騎士が、蹄の音も軽やかに現れそうなロケーション。
 教会は大理石の縞模様で、正面は尖塔の端まで彫刻で埋められています。日曜日でしたのでミサが行われていて、静かに見学することを主は許され恐る恐る中に入りました。司祭の朗々とした説教の声が厳かに響き、正面にイエスキリストの像が柔らかくライトアップされています。祭壇正面は修復途中とのことでしたが、普段着の儘の少年聖歌隊の賛美歌が流れる中、白い衣の少年が儀式を司る司祭を手伝い、詞には全員が唱和して、それが教会の中にこだまするのです。パリでもノートルダム寺院のミサに遭遇し、震えるほどの感激を体験した幸いなる者の私ですが、この教会でも己の信仰心の無さを悔いながら、神に許しを乞いアーメンでした。黒い石畳の路地と、土地の焼き物を並べた素朴な土産物屋をスケッチしたかったけれど、残念ながら下りの登山電車の時間が迫り、名残の紅葉も美しかったオリビエートを後にしました。日曜日には教会のミサに集う素朴な村人達の姿は、まるで映画の1シーンのように今でも時々思い出します。

 トレビの泉でコイン投げ

 全ての道はローマに続く、ローマは1日にしてならず、ローマ帝国滅亡、レスピーギはローマの松、等々教科書的フレーズが、あれこれ貧弱な脳細胞を攪乱する中、バスはそのローマめざしてひた走ります。テベレ川の支流に沿って、葡萄とオリーブの畑もバランス良く混じる、豊かな田園風景が続く中、ラツィオ州はローマに着きました。古代都市の面影を残す崩れかけた城壁の側や城門を潜り、枯葉を少し残したプラタナスやマロニエの街路樹が迎えてくれました。ツアーの最後の目的地ローマに着いたのです。
 ローマと言えば、誰でもすぐに思い浮かべる「トレビの泉」。映画「ローマの休日」で一躍有名になった、あの「スペイン広場」から直線にして3キロの場所にあり、中央に海の神ネプチューン、両脇に嘶きをあげる二頭の馬と裸像に岩を配した彫刻の群像のここかしこから、止めどなく水が溢れ流れ落ちています。壮大なポーリ宮殿を背後に、バロック風のこの華麗な噴水を目の前にして、想像していたより遥かに大きく見事なので、ええっ!と絶句した私。泉も広いのです。観光客は、申し合わせたように泉に背を向けて、肩越しにせっせとコインを泉に投げ入れています。鉄柵の前に進んで、私も再びローマに戻ってこられますようにと、右手のコインを左肩越しに投げ入れました。そうすると願い事は叶えられるのだそうですよ、知ってました? 泉に貯まったコインは、一定の額が集まると施設に寄付されるのだそうです。国中が古代遺跡の宝庫か博物館のようなこの国では、200年前にニコラ・デ・サルビの設計によるこの噴水は、それほど古いものではないのですね。

 コロッセオをバックにシーザーとカメラに

 町中至る所に彫刻や噴水があり、そして幅5センチ弱のレンガを幅広く積み重ね、それらが崩壊され雑草のはびこったままの城壁等、バスの中から見学しながらコロッセオに向かいました。途中イタリア統一を記念して1911年に完成した、ビットリオ・エマヌエーレ2世記念堂のあるベネツィア広場も通過。この広場は、ローマ市内の交通の要所でもあり、又記念堂は市内の殆どの場所から見えるので、迷ったときの道標になるのだそうです。屋上の両端に4頭づつの騎馬像が前足を空中に蹴り上げ、後ろには羽をかざした大鷲の勇姿が見えます。正面の階段を登ったところに、第1次大戦の時戦死した無名戦士が祀られているとガイドブックに記されています。バスはゆっくり走ってくれ、白亜の殿堂にカメラを構えたりしてローマを実感しました。
 コロッセオの直ぐ近くサン・グレゴリオ通りに見上げるばかりの高さで、しかも美しい凱旋門があります。コンスタンティヌスの帝位を記念して建立されたもので、アーチを巡る四面は、戦の物語がびっしり浮き彫りされているのです。ローマでのガイドさんも女性で、早口で喋る彼女の説明の間も、側をひっきりなしに車が走ります。そして、幹を伸ばし上の方だけこんもりと剪定されたローマの松並木は、日本の松のイメージとは随分違います。アッピア街道や空港に向かう道でも並木になっていて、正にローマの松なのですね。
 凱旋門の直ぐ側石畳の続きに、壮大としか言い様のないコロッセオが、ドカーンと建っていますと言っていいのか、崩れかけていますと言ったほうがいいのか迷いますが、とにかく見覚えのある巨大なローマ帝国の遺跡があります。高さ57m、直径188m、周囲527mの円形競技場は、人間対人間、又は人間対猛獣を闘わせて快楽を求めた当時の面影を残し、怨念と恐怖と何万と言う群衆のどよめきの声が聞こえて来そうです。
 観光客相手に赤いマントに金色の甲冑を着け、楯と剣も手にして「ブルータスお前もか」のシーザーの如き格好をした4、5人の男達が一緒にカメラに収まってくれます。1人20,000リラ!也とは、良きバイトだと思いませんか。シーザーもブルータスも生きていたら何と言うでしょうね。でもしっかり一緒に写って嬉しそうに笑っている私がいます。観光に生きるローマに協力したのか、ただ単に勝手なバイトにボランティアしたのか疑問ですが…。

 ミケランジェロの大遺産、サン・ピエトロ大寺院

 そして本日のハイライトはサン・ピエトロ大寺院で、暮れなずむ広場に佇み暫くは足が前に進みませんでした。石畳に白い大理石の幾何学模様が放射線状に埋め込まれ、楕円形の広場の直径240m、中央に高さ25.5mのオベリスクが天を指し、それを挟んで2つの噴水があります。コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認し、324年この地にあった聖ペテロの墓の上に教会を建てる事に決定してから現在の姿に完成したのは1624年と言う、気の遠くなるような歳月に改めて宗教の歴史を感じました。
 広場を囲む半円形の回廊にはドーリア式の列柱が4重に配置されていて、その数284本、柱の上の彫刻は140体を数え、それぞれのポーズで空中に向かって立っているのです。そして正面奥に西洋の兜型の尖塔を持つ巨大な屋根のサン・ピエトロ大寺院。右手にバチカン宮殿があり、ここはイタリアでもなくローマでもなく、いわゆるバチカン市国なのです。世界中のカトリック教徒の総本山でもあり、法王のミサが行われるクリスマスは勿論、毎日曜日の正午、バチカン宮殿内のシスティーナ宮殿の居室の窓からの祝福の詞を聞く為に、広場は熱心な信者で溢れるのです。現在の法王パウロ2世が、紛争が起きる度に神の御名において、世界中に平和を求めるメッセージを発信されますが、この舞台装置があればこそ、の感がします。愚か者の私は、この広場に向かって立ちつくした時、何か叫びたくなりそうでしたよ。
 聖書は昔、中国山地の小さな城下町の高校生だった頃、何故かアメリカ人の宣教師が突然学校にやって来て福音書の宣伝をして立ち去り、少々さざ波をたてたことがあります。成人して一応新旧約聖書のあらましは読んだつもりなのですが、キリスト教文化に触れる度にその影響の偉大さに脱帽し感嘆するのみです。聖ペテロの墓の上に建てられた、名実ともにカトリックのメッカ、サン・ピエトロ大寺院の中に一歩入って又もや気絶しそうな感情に襲われました。決して大袈裟な表現ではありません。72才になったミケランジェロが89才で世を去るまで、全身全霊をかけて最終設計と監督をしたとされるこの遺産は、後世に残した大芸術作品に思えてなりません。ほのかな灯りの中で歩を進めるのですが、目に写る物全てに圧倒されて、私の胸中はパニック状態になっておりました。色大理石で埋め尽くされた床、柱も壁も彫刻が施され、遥か彼方の天井にも彫刻とフレスコ画。ええっ、何故これ程までの装飾をの感深しで、上を見て下を見て横を見て溜息ばかり。

 「ピエタの像」に再び逢いたくて

 クレゴリオ暦を制定した、グレゴリオ13世の大理石の石棺とその像。後陣の一番奥まつた処にある聖ペテロの玉座は、バロック風の華麗な飾りが施されたブロンズ製で、ベルニーニの作とか。今までに数しれない信者達が接吻をしていくので、丸くすり減ってしまっているブロンズの聖ペテロの足。内陣中央には、ベルニーニ作で矢張りブロンズ製の華麗な天蓋を持つ法王専用のミサ祭壇があり、その地下に「ペテロ」の墓があるのでした。中でも圧巻は「ピエタの像」で、ミケランジェロ25才の時のこの作品の前に立ったとき、なぜか泣けてきそうでした。前々から是非この目で確かめたい、と思っていた「ピエタの像」が今私の前にあるのです。十字架から降ろされたキリストを膝に抱いて嘆くマリアの乳白色の大理石の像は、私の心を奪い暫くは立ち去ることができませんでした。人影の途絶えたとき、そっとカメラに納めた嘆きのマリアの像は心持ち首を傾いで嘆き続けた儘アルバムにあり、今も私の心に受難曲が、レクイエムが流れます。
 祭壇の前に立っても懺悔室を覗いてみても歴代の法王の衣を見ても、語り尽くせるものではありませんが、広い寺院の中を巡って終わり近くなり私はどうしても今一度「ピエタの像」に逢いたくて1人でプレイバック。そして再び「ピエタ」の前に立ち尽くした儘、どれほどの時間が経ったのでしょうか、ふと我に返って出口に急ぎました。寺院の外はすっかり暮れていて、街並みには灯りがともっています。しまった!集合時間に遅れてしまったと、辺りを見渡しても見覚えのある人がだぁれもいない。慌てているときは仕方のないもので、広場を横切って反対のバス乗り場に行ってしまい、見覚えのあるバスを探しても見付かる筈はありません。その時もう1人の迷子のK夫人が、心細そうに円柱の側に立っているのが目に入り、声をかけると「ああ、助かった!」と彼女。助かったのは私の方で迷い人?も2人になれば鬼に金棒、とにかく元の寺院の入り口に戻ってみましょうと急いで広場を横切っていると、コートの裾を翻して私達を探している様子のガイドさんに出会って「ごめんなさい」と平謝り。バスに戻り待たせてしまった皆さんにも謝って無罪放免でしたが、駐車禁止の場所にバスを止めていたらしくて反則キップ切られたのだとか。ホテルに帰る途中そのことを添乗員さんから聴いて、今夜でお別れのドライバーさんに、お詫びの気持ちのチップを渡すと機嫌良く受け取ってくれました。

 盛り上がり不足のカンツォーネ・ナイト

 ホテルピサナ・パレスに着いて暫く休み、少しばかりおしゃれをして今夜のディナーは本場のカンツォーネ・ナイトに出かけました。オプションなので10人ばかりマイクロバスで、夜のローマの街を20十分ばかり走ってカンツォーネレストランへ。奥まったテーブルに案内されて、カンツォーネを聴きながらのディナーの始まりだったのですが。
「オオ・ソレミオ」「サンタ・ルチア」「帰れソレントへ」「フニクラ・フニクラ」等々、お馴染みのイタリア民謡をヴァイオリンの伴奏で歌ってくれるのですが、パヴァロッティ風の巨漢の男性が直ぐ耳元で張り上げるテナーには、楽しむ前に疲れました。運ばれて来るテーブルの上の料理も持て余し、お皿からはみ出しそうな大きなピッツァには、さすがの寺田夫人も勿論私もギブアップ。それでもリクエストの曲を歌ってくれたり、ワインも楽しんだりしたのですが、今一つ盛り上がり不足の状態は何だったのでしょうか。添乗員の溝内さんもその雰囲気を察して早めに切り上げることを提案、全員異議無くレストランを後にしたのですよ。こぼれそうな胸をワンピースに包んだ一座の女性が、歌の合間にテーブルの端で集めたチップをしきりに数えていたのが印象的でありました。ホテルに戻って明朝早い時間にシスティーナ礼拝堂へ行く為のTAXIの予約をしたりして部屋に入り、バスを使って流石に今宵はバッタン・キューでベッドへ倒れ込んだ二人でした。明日は自由行動の日なのでナポリ・ポンペイに行く人、市内うろつく人いろいろなので、それぞれ計画を胸に眠りについたことでしょう。

 ミケランジェロの大壁画「最後の審判」

 12月1日、モーニング・コーヒーもそこそこに、最終目的のシスティーナ礼拝堂に行くべく、2人は予約してあったTAXIに乗り出かけました。AM8時20分には無事に着きましたが、すでに30人ばかり入館を待つ人の行列ができていて吃驚しました。MuseiVaticanの入り口はバチカン市国北側のバチカーノ通りにあり、入館は8時45分からなのですが、振り向くと私達の後ろにはあっと言う間に長蛇の列が出来ていましたよ。老若男女にインターナショナルな人人人人人人。入館料は15,000リラで1,200円位。
 入り口には所用時間別に色分けされたコースが表示されているのですが、とうてい全部鑑賞できるわけもないので、ラファエロの間とミケランジェロの「最後の審判」のあるシスティーナ礼拝堂のあるコースを迷わず選び、長い螺旋階段を降りて行きました。館内は全て一方通行になっていて、迷ってもガイドかガードマンが親切にコースを教えてくれますが、時々不安になりながら進む2人。  
 ラファエロの間に通じる廊下は、彼とその弟子によって24年の歳月を懸けて、壁画や天井画が華麗に描かれていて思わず立ち止まってしまいます。そしてよく知られている、ラファエロ作の「アテネの学園」の前に出ました。高さ約6m、底辺約8m強のフレスコ画の前には、先発隊が熱心に鑑賞しています。壮大な建物の階段に集う哲学者達、蒼穹が望まれる階段の中央に天を指すプラトン、地を指すアリストテレスが立ち、その周囲にあらゆる学問の代表者達が様々なポーズで描かれているのです。画面の右端の黒い帽子を被って少し横向きの青年が、ラファエロだと解説書にありますが、そのまま目を天井に向けるとそこにも幾何学的に割り振られた彫刻と文様の枠の中に、びっしりと描かれたフレスコ画。足元に目を移すと床は色大理石で敷き詰められていて、どうしてこのような文様が考えられたのかと溜息ばかり。これまでに何万人の人がこの上を歩いたり立ち止まったりしたのでしょうか。
 法王を選出する枢機卿会議場として知られるこのシスティーナ礼拝堂に、世界中から人々が集まってくるのは、ミケランジェロの大壁画「最後の審判」を鑑賞し、この目で確かめたいからでしょう。私も中庭の見える細い廊下を抜けると、感動と興奮で震えそうになった大壁画と天地創造の天井画に遭遇できました。奥行き40m、幅13m、高さ20m、縦長のこの礼拝堂の中央正面に「最後の審判」が描かれています。ええーっと心の中で悲鳴をあげながら見上げると画面中央に、見慣れている十字架のキリストとは全く別人の如くの逞しい身体の審判者イエスキリストが右手を挙げ、側にマリアと聖人達、右手下方に地獄に堕ちていく人々の群、左手に救われた人々が、全て僅かな衣を纏った裸像で描かれています。

 天井に、聖書からの物語「天地創造」

 そして天井に目を移すと、聖書からの物語「天地創造」が、正に指と指が触れようとしているアダム誕生の人間の歴史、楽園を追われるアダムとイブ、その他の物語が見事な色彩と構成で描かれているのですが、どうして何故このような壮大で美しい画面が、天井という物理的にも困難な場所に表現することができたのでしょう。堂内の両側の長椅子に座って眺めることもできますが、不思議な空間に居るような気分になります。キリスト教のことも聖書に関しても深い知識はありませんが、法王の命令とはいえミケランジェロの遺してくれた傑作に感謝と感激あるのみではないでしょうか、などと生意気なこと考えながら天井を眺める私でありました。この旅のクライマックスだったような気がします。 
 側壁画も見落とす事はできません。正面に向かって左側がモーゼの生涯、出エジプト記、右側にキリストの一生が写実風な風景と共に克明に描かれています。これはペルジーノ、ポッティチェッリ、ギルランダイオ等ルネサンス画家の筆によるものとガイドブックに記されています。この部屋の床も勿論色大理石で、踏まれるのが惜しいような装飾文様で敷き詰められ、人々の靴の下で耐えていました。
 どれくらいの時間が過ぎたのでしようか、外気に触れたくなって再び長い廊下を辿りテラスに出ることができました。柔らかな冬の日差しを浴びながら、三々五々、人々が鑑賞の疲れを癒して居る様子でした。
 私達も思い切り背伸びをして言葉もなく一休み。側に休憩室もあり、コーヒーとアイスクリーム、スナック菓子がセルフサービスながら有る様子に、急にのどの渇きを覚えコーヒーを求めテーブルに付き、昨夜の残りの冷えた本場のピッツァパイを食べたのでありました。もったいないと殆ど残した昨夜のパイを包んでもらい、彼女が持っていてくれたのです。イタリアくんだりまで来てしっかり小母さんしていれば世話はありません。それでもまだ私のパイは、残ってしまったので流石に屑籠へ直行し、その歴史的時間は11時30分でありました。
 本命は鑑賞する事が叶ったので、そろそろ退陣しようとしたのですが、なにしろ廊下の天井も壁も彫刻、織物、絵画で溢れているのですから、きょろきょろうろうろ後戻りと、なかなか出口に辿り着けません。
 途中に何カ所かあるグッズ売場にも立ち寄り記念の品を求めたり芝生のある広場に迷い出ると、巨大な松毬を何人かの人物像が支え両脇に孔雀が向き合い、人の高さの辺りのライオンの口が噴水になっていて、更に階段の下辺りにライオンが寝そべっている像のある、曰くありげな場所がありその噴水の前で一休み。そこから少し後戻りした案内所らしき処にポストを発見。ならば切手も有る筈と入ってみると、がらんとした部屋で小父さんが1人で相手してくれ、1枚1,300リラのそれを日本に宛てての絵はがき用に6枚求めました。それはバチカン市国発行の貴重な切手であることを、帰国してからガイドブックで知るのです。主人宛のピエタ像の絵はがきに貼っている切手を改めてみると、なるほどバチカンらしいデザインではあります。貴女宛の絵はがきにも貼ってある筈です。
 他にもエジプト博物館、その他少し覗いてラオコーンの像など心残りはありましたが、残り半日しかないので次の目的地古代ローマの政治、宗教、経済、そして軍事の中心地で公共の広場として繁栄を極めた遺跡、フォロ・ロマーノへとTAXIを走らせました。

 丘の上から見下ろすフォロ・ロマーノ

 カピトリーノの丘と、パラティーの丘の谷間にその遺跡はあります。昨日訪れたコロッセオの隣にあり、五世紀ゲルマンの侵略で荒廃していたのを、1803年以降の発掘により古代の遺跡として見学できるようになっているのです。コンスタンティヌス帝の凱旋門の近くでTAXIを降りて、坂道というか遺跡に沿って丘を登りながら見学。何しろ古代ローマの中心地は広大で、時間のない2人には中に入ってゆっくり歩くのは無理と判ったからです。
 レンガ造りの元老院跡、303年セペルス帝のメソポタミア征服を記念して建てられたセペルス帝の凱旋門、ティトゥス帝のエルサレム占領記念のティトゥス凱旋門、その他神殿の跡、シーザーの建設したパシリカの跡、勝利に酔った武将達の幾頭立てかの馬車が蹄の音を響かせたであろう石畳の聖なる道等々、丘の上からでもしっかり見ることができました。凱旋門にびっしりと施された戦の物語のレリーフは、誰がデザインし、誰が彫っていったのでしょうか。又、幾年か前に矢張りこの地を訪れて、神殿の柱の遺構を「悠」と題して見事な日本画に残している広島の友がスケッチしたのはこの辺りだったのかしらと同じ場所らしき処を確認し感慨無量でカメラに納めました。暫くはこの古代ローマの廃墟を眺めながら次の目的地「真実の口」への道順をガイドマップで調べたのですが、ここは岡山にあらず東西南北が曖昧で、近い事は確かでも方向が定まりません。

 ローマの休日は「真実の口」とスペイン広場

 丁度その時、近くにいた北海道から来たという2人の女子大生も「真実の口」へ行くという。しかもその1人は、行ったことがあるのでご一緒しましょうと誘ってくれる。旅は道ずれ喜んでついて歩き始めたのですが、若い彼女達の足の速いこと。丘を登り、市庁舎の前、博物館の広場を過ぎ、やっとフラットな道に出たと思ったら、どうやら迷ったらしく同じ横断歩道を往復させられ、どうなる事やら不安を覚えた時「あった!」と彼女達の声。広場に面したサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の入り口にひっそりと海神の像「真実の口」は気付かず通り過ぎてしまいそうな処にありました。 
 直径が私の背丈ほど、大理石に彫られた海神の仮面「真実の口」は、映画「ローマの休日」で一躍有名になってしまったローマの観光名所。やましい者や嘘をついた者がこの口に手を入れると、たちまちにして食いちぎられてしまうという伝説を説明しながら自らの手を入れて見せ、しかも食いちぎられそうな仕草をして純真な王女を吃驚させるシーンを思い出してください。オードリ・ヘップバーンの限りなく美しい瞳と可憐な笑顔が忘れられませんね。ところで、この不思議な顔をした石の造形物は、古代ローマではマンホールの蓋だったとの説もあるのですよ。でもやっぱり私達も交代で、恐る恐る手を入れてみたのでありました。一歩外に出ると広い石畳の舗道で観光用の馬車が一台、所在なさそうに客を呼ぶ様子もなく、唯観光客の被写体に甘んじているのでした。馬とお揃いのウェアを着てね。
 女子大生達と別れ、本日最後のステージはスペイン広場へと急いだのであります。勿論TAXIで行ったのですがカンピトリオ広場、ベネツィア広場、そしてクイリナーレ宮殿前と、観光を兼ねしかも最短距離に近いコースを走ってくれた優しきドライバーでありました。
 スペイン広場の由来は簡単明瞭、スペイン大使館のあったスペイン宮殿があったから。広場の中程に噴水があり、その周りはまるで人種の坩堝の如く人が溢れていて、添乗員さんからくれぐれも、あの場所ではスリとジプシーに気を付けるようにと注意されていたのですが、別にゼッケン付けているわけでもない彼らを見分けることなど不可能。たどたどしい日本語で焼き栗を売っているアラブ系の屋台のお兄さんから1袋買ったのですが、日本語は池袋で覚えたのだそうですよ。熱々で美味しかったその焼き栗を持って、「ローマの休日」のヘップバーンのソフトクリームに習って、広くてしかも50段以上ありそうなスペイン階段の人となり万歳!でした。若者が殆どでしたが広い階段の上は2つの尖塔を持つ壮大なトリニタ・ディ・モンティ教会を背に、大勢の人が思い思いに座って時を過ごしている風で、小母さん2人もその仲間入りをしたりして。そして今この階段に座っていられることを感謝した私でした。

 ショッピングはセルモネータの手袋

 ここでトイレの話を少しだけ。地下鉄の入り口にあるそれは全く「Oh! No!」で、200リラ払ってドアは開いたのですが、どうしてどうして日本人の感覚では使用できる状態ではありません。慌てるより急いでその場を逃げた2人は、地上に出てさてどうするの、どうしましょう。そうだ添乗員さんから教わっていたマクドナルドで借りる方法がありました。幸いマクドナルドは直ぐに見付かり、客の振りして店内へ。ここもご多分に漏れず若者で溢れ喧噪の店内でしたが、そこのトイレは清潔でしかも無料で使用させてもらいました。ごめんなさいねマクドナルドさん。
 スペイン広場に通じる何本かの通りは、ショッピングが愉しい場所とガイドブックにもあり、中でもコンドッティ通りは有名と記されてあったので足を運んでみました。X'masの飾り付けの始まった通りには、これ又ウインドウショッピングを楽しむ人、唯ぼんやり散策する人、恋人と肩寄せ合う人が余り広くない舗道に溢れていました。雑誌のグラヴィアに載っているお店が、軒を連ねてディスプレイを競っている様はなるほどと納得。ミッソーニ、プラダ、グッチ、ミラショーン、ヴァレンティーノ、アルマーニ、フェラガモ、シスレー、トラサルディ、そして宝石のカルティエ、ブルガリ等々客に媚びることなく、それぞれが個性的にアート風にディスプレイされていて、買わなくても買えなくても愉しでありました。
 広場の前の通りにも洒落たお店が並び、「日本円でOKです」等とウインドウに貼ってあったりします。手袋専門のお店のカラフルなディスプレイに誘われて入ってみました。1階も2階も手袋が賑やかに迎えてくれ、私の手に良く馴染む柔らかなカシミヤの裏付きのを求めたので、この冬は想い出と共に暖かく過ごせそう。それはSERMONETAと描かれた真っ赤な紙袋に入れられて手元にありますが、帰国してから岡山のデパートで催されたイタリア展で手にしたパンフに、セルモネータの社長の写真と共に手袋の由来が載っていましたよ。

 イタリアツアー「最後の晩餐」

 TAXIでホテルに戻ってみるとポンペイに行った人達も、他に自由行動している人達も帰っていなかったので部屋で一休みし、ロビーに降りて夕食のことを話していると、広島か山口訛の小父さんが、ホテルのレストランより外に出て隣のレストランの方が美味しいと教えてくれましたので早速出かけてみました。
 ホテルの直ぐ隣りにあったそのレストランは、カウンターとテーブル席が五席程のリーズナブルなお店でした。先ずはパスタとビールを注文して待つことしばしで、運ばれて来たトマトソースのそのパスタは熱々で、茹で加減しこしこのアルデンテで美味しかったことといったら。寺田夫人は遂にお代わりをしてウエイターを喜ばせ、2人の「最後の晩餐」はこのイタリアツアーの終幕を演じるに相応しい夜となりました。勿論チップも気分良く置き、グラーチェ!でお店を後にしました。
 ホテルに戻ってみると添乗員さんとナポリに人達も、自由行動していた人達も皆無事に帰っていて、各自本日の成果を報告しあい最後の夜を惜しみました。ナポリに行った京都の荒木さんから、ポンペイで拾った石ころをお土産に戴き、今も私の本棚の一隅に転がっていて、ポンペイの在りし日を語ってくれています。
 部屋に戻り、例によってスーツケースの中身の整理整頓、とは名ばかりで出したり入れたり、挙げ句の果ては明日の朝にすればいいとピリオッド。段々増えた荷物を纏めるのは、何時の旅でも至難の業です。最終便のハガキを書き、バスを使いベッドに横になったものの、1週間の想い出が胸中を駆け巡り、トリプルの広い部屋でなかなか寝付かれない2人。とりとめのないお喋りをしながら、それでもいつの間にか、どちらからともなく沈没していました。

 いよいよ帰国の途に、アリヴェデルチローマ!

 12月2日AM8時半、ホテルを後にして、いよいよ帰国の途に着くべくレオナルド・ダ・ヴィンチ空港へ。朝日を浴びながらバスは空港への高速道路を快走し、両側のローマの松の並木が後へ後へと流れながら見送ってくれます。アリヴェデルチローマ! 又何時の日か訪れることがありますように、と繰り返し心中で祈りながら風景を見納めました。
 12月3日AM9時35分、JL420便は途中一度もエアポケットの恐怖にも遭遇せず、徳島上空から関空の滑走路に滑るように着地。シートベルトから解放され、ベルトコンベアから流れ出る荷物を受け取り、カートに乗せてロビーへ。添乗員の溝内さんの最後の挨拶や、旅は道づれだったツアーの皆さんと無事に帰国できたことを喜び合って解散。荷物を宅便のカウンターに預け、主人に無事帰国のTELをしてから、京都へ帰るという白井さんと荒木さん寺田夫人と私とで空港内のお蕎麦やさんに寄り、久しぶりの日本の味を確かめほつとしたのでした。女のお喋りは尽きなかったのですが、御神輿を挙げ家路をめざして「はるか」の乗客となり、新大阪で彼女達ともさよならし、今度は「ひかり」のホームへと急いだ2人。
 広島までの寺田夫人とも岡山駅で別れ、TAXIで暫く留守していた我が家に着いたのは、午後1時を少し回った頃でした。昨日はまだイタリアに居たのにと思うと、見慣れた我が家の風景がなんだか不思議な感覚で迫ってきます。
 帰国途中の機内で、涙を流しながらこの旅への誘いを喜んでくれた寺田夫人には、随分お世話になりました。まさしくゴッドマザーだった彼女に心から感謝し、愉しい旅を本当に有り難うございました。そして、8年前初めての海外旅行の時と同様、この度も快くOKして旅立たせてくれた主人に、感謝の言葉がみつかりません。書き残したこと思い出せなかったことは、又何時の日にか記すことにしましょう。

 スーツケースのステッカー、次は?

 先の旅のミュンヘンの市場で買った青いリンゴの味が忘れ難く、この旅でそれと同じリンゴをヴェニスの市場で見つけ買いました。日本では失われてしまった、あの酸っぱくて堅い歯触りのリンゴの味が、変らぬまましっかりと守られていて感激したものです。赤緑黄白カラフルな野菜や果物が、まるでアートかと見紛う如くに並べられた市場の風景と共に思い出されます。
 未だに片づけられなくて、廊下の片隅に置いてあるスーツケース。そのスーツケースの側面を、訪れた各地のステッカーを貼り埋め尽くしたいと、まるで子供のような願望を抱いている私です。現在進行形のそのステッカーを見る度に、求めた時の情景が思い出されて懐かしく、私にとってそれは至福の時なのです。お笑いください。
 次なる旅は何時何処へ行きましょうか。モーツァルトの足跡尋ねて、ウィーン、ザルツブルグ、プラハそしてブダペスト辺りへ、長い休暇がとれるようになった主人と、ゆっくり巡ることができたら幸せと願って、拙い文を閉じることにします。八年前初めての「駆け足ヨーロッパ紀行」を記したのは、初対面のワープロでした。今度は私専用のパソコンを買ってくれたので、これ又初めてのパソコン対決。意志に反して、とんでも無い反応を示すカーソル追ってクリックしながら悪戦苦闘の連続でしたが、「ヘルプ」の時は何時でも「どれどれ」と往診してくれる主人に、文字どおり「ヘルプ」されて閉じることができました。

 それではごきげんよう、さようなら。
     平成10年晩春の頃に。コンセプトは気儘に生きたい小母さん。         
旅程表    

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