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初めてのヨーロッパ旅行

 お変わりありませんか、今年も残り少なくなりました。何かしなくてはと思いながら炬燵に入って、ぶっつけ本番で慣れない事に挑戦しています。今年もいろいろとありましたが、何といっても私にとって最大の出来事は、春に幼馴染みのミドリちゃんを誘って、ヨーロッパ旅行が実現できた事です。

   
ローテンブルグでハッピーバースデー

 ドイツ・ロマンチック街道の旅は、思いがけない速さで私にパスポートを与えてくれ、4月18日大阪空港から、シンガポール経由フランクフルト行きのゲートを通過することができ、フランクフルトからアウトバーンでハイデルベルグに入りました。そこは旧い大学の街。石畳と地下の学生牢で最初の異文化に触れ、丘の上の古城から豊かに流れるネッカー川と教会の尖塔を目の当たりにしたとき、憧れのゲルマンの地に立っている自分が信じられませんでした。ハイデルベルグからネッカー川に沿って幾つかの古城を眺めながら南下し、ロマンチック街道の宝石箱と呼ばれる、美しい町並みと城壁が中世の姿のまま残るローテンブルグの門をくぐりました。天に向かってそびえる様々な塔、石畳の感触、透かし彫りのこよなく美しい看板の数々、夜のマルクト広場のナイトの寸劇など童話の世界がそのまま目の前に展開されて、ただ夢の世界にいる思いでした。城壁の直ぐそばのホテルで迎えた55歳の誕生日は25名のツアー皆さんに祝福され、まさにハッピーバースデイの夜を過ごすことができました。
 ディケンスビュール、ネルトリンゲン、途中ドナウ川も渡りアウグスブルグと、東山魁夷の「馬車よゆっくり走れ」の文章そのままの風景を楽しみながらバイエルンの地に入りました。

   
朝日に映えるノイシュバンシュタイン城

 バスの窓から雪のアルプスを背景にノイシュバンシュタイン城が見えてきたときは、思わず皆が感嘆の声をあげました。旅の疲れも忘れて、長い間憧れていた幻の城、ルートヴイッヒ2世の悲劇の城がワーグナーの楽劇そのまま白鳥を想像させる姿で目の前にあるのです。初めて見る西洋の城の内部の豪華さには言葉も無いまま見学しました。写真集や雑誌などで見て実際にあるのかしらと思っていた城の中にいる居るなんて。2頭だての馬車に揺られながら城の麓にひっそりと立つホテルに戻り、その感激を国際電話したものです。
 さらなる感激は、夜明けとともにカーテンを開けたとき、朝日に映える城の姿をベッドの中から眺めることができた事です。4月も下旬のアルプスの麓の朝は肌寒く、バルコニーに出て見ると思わず身震いしましたが、同行のミドリちゃんと2人、雪のアルプスと城を眠気も忘れてカメラに収めました。バイエルン地方の民族衣装と思われる制服を身に付け、明るくきびきびと振る舞うウエイトレスのサービスを受けながら、マホガニーの家具やゴブランの壁掛けの掛かる食堂で朝食を取りました。ホーエンシュヴァンガウ城の見える窓辺でコーヒーとドイツケーキを楽しんだ後、標高1200メートルといわれるホーエンシュヴァンガウの地の散策に出掛けてみました。観光地とは思えない静寂さの中に、幾つかのホテルとレストランが自然と調和を取りながら並んでいて、その道を辿りながら湖のそばに降り、ここでも夢の続きのような風景に出会うことができました。白鳥の湖の伝説どおり、朝靄の中に静かに羽を休める2羽の白鳥に、ワーグナーに狂った王の秘話を思い出したりもしました。
 名残り惜しいバイエルンの地をあとに、果てしなく続く牧草地と豊かに耕された緑の麦畑、所々に広がる葡萄畑、春の花々に囲まれた農家のたたずまい、グリム童話に出てきそうな深い森、丘陵地に見え隠れする教会と小さな集落、まるでモーツァルトの音楽を聞くような風景の中をミュンヘンへと向かいました。

   
ミュンヘンビールでプロージット!

 『ミュンヘン』--なんて優しく心に響く町の名前でしょう。西ドイツ有数のこの都市で久し振りに都会の風景と人々の群れをみることができました。有名なマリーエン広場も、ゴシックの美しい市庁舎の正午を告げる人形時計を見物する人で身動きできないほど、青空市場も買い物を楽しむ人達でいっぱい、赤旗立ててのデモ行進までありました。市場で青いリンゴを求め、紙袋に入れてもらい、それを抱え時に齧りながら、あちこち見物しました。ミドリちゃんは旅の2日目から、すっかり意気投合してしまったミセス内田と、2時かっきりに閉店してしまうドイツの商習慣に、慌ててソーセージを買いに走ったものです。走る事がタブーな私は一人広場に残り、少しばかり心細かったけれど、好奇心に駆られ、マリーエン広場の一角にあった楽器店のウインドウのチターの数々に魅せられ店内に入って見ました。楽器を買う訳にもいかないので、ヨーデルのテープを3本ばかり求めて店を出ました。。暫くして彼女達が両手に一杯、本場のバラエティに富んだハムやソーセージを抱えて帰ってきました。寒さを避けて地下鉄のホームに降りて熱いコーヒーで暖まり、集合場所へと急いだものです。
 オリンピック記念公園、国立劇場、音楽堂と駆け足見学し、ニンフェンブルク城では王公貴族の贅を尽くしたロココの美術と、広大で美しい庭園に溜め息をつき、世界有数の美術館の一つアルテ・ビナコティークではデューラーの「4人の使者」を初め、レンブラント、レオナルド・ダ・ビンチ等多くの芸術作品を鑑賞することができました。
 ミュンヘンと言えばビールの事を忘れる訳にはまいりません。「プロージット!」映画のシーンやミュンヘンを語るとき必ず出てくるホーフブロイハウスの体験もすることができました。広いホール一杯の人達は、バイエルンの学士の奏する民謡やマーチに合わせ愉快にジョッキを傾け、赤い顔のおじさんが私に向かって乾杯!してくれました。ホールの喧騒と興奮に旅の疲れも我をも忘れそうになりました。

   
マロニエもリラも一斉に咲いて

 ミュンヘンからパリへは列車でした。2等クシェットのコンパートメントの乗客となり、ほっとする間もなく、話に聞いていたとおり発車の合図も無く、列車は夕闇の迫るミュンヘン駅を後にしました。昔も今も少女のままのミセス内田とミドリちゃんと私は、修学旅行の女学生の様にはしゃぎ笑い転げ、なかなか眠りにつく事ができず困りました。規則正しい轍の響きを聞きながら、自分が今ミュンヘンからパリに向かう夜汽車に乗っている事が信じられない思いでした。鉄道作家の宮脇俊三の文章に触れる度に、一度は体験してみたいと思っていたヨーロッパの鉄道にいま乗っているのです。国境を越えるための手続きも無事にパスし、添乗員の梶村さんからパスポートが各自に配られました。ぐっすり眠れないまま夜明けの気配にブラインドをそっと開けてみると、そこはもうパリ郊外の住宅地らしい風景が流れていました。
 パリ東駅に着き、ここでも重いスーツケースは預けたままで、身の回りのものだけ持って出迎えの観光バスに乗り込みました。とうとう花の都パリへきてしまいました。例年ならもっと遅く咲くはずのマロニエの花もリラの花も一斉に咲いて、緑美しい見事な街路樹と共に私達を迎えてくれました。
 4月23日、日本を出てから6日目、最初に訪れたノートルダム寺院は丁度日曜日のミサで、荘厳な寺院の中は聖歌隊の歌うミサ曲が高い天井に響き、白い衣の司祭の行列、見上げれば魂も奪われそうなステンドグラスの鮮やかな色彩の美しさに、クリスチャンではない身の私でも思わず十字を切りたくなりました。まさに荘厳ミサ曲の世界なのです。セーヌ河畔のルーブル美術館、オルセー美術館、コンコルド広場、エッフェル塔、ナポレオンのメモリアル広場など美しい建物ととぎれる事のない街路樹、そしてセーヌに架かる数々の橋を眺めながらホテルに入りました。一休みした後、さあ、これからの自由時間を有効に使おうと、例の3人娘でタクシーで勇躍繰り出したものです。

   
街角のレストランでエスカルゴ

 オペラ座近くでタクシーを捨て、先ずはエスカルゴをと街角のレストランに入りました。メニュー片手に悪戦苦闘の末にスープ、エスカルゴ、ムニエル、サラダ、パン、ワインとオーダーしたものの、運ばれてきたその量の多さにどうする?とフォークを持つ前にギブアップ。でも丁度入ってきたツアー仲間の新婚旅行の3組みの人達に喜んで手伝ってもらい、胃袋の破壊は免れました。後で物の本を読むと、あのオニオンスープなるものはオペラを楽しんでの帰途、とりあえずお腹を満腹にする為のものとか、納得!でした。
 ショッピングも迷ったり、悩んだり、楽しんだりしながらシャンゼリゼ、凱旋門とうろうろ、再びオペラ座通りで添乗員の梶村さんにばったり遇い、素敵なレストランに連れて行ってもらう幸せに恵まれました。彼女のぺらぺらのフランス語でパリの味と雰囲気を楽しむ事が出来て、本当にウイ・マダム・メルシーでありました。それから彼女と別れ、ミドリちゃんと2人オルシエ美術館ならぬコンコルド広場近くのオランジェ美術館へ行き、地下1、2階の円形の壁面全体に描かれたモネの睡蓮の絵に圧倒され、その色彩に酔いしれました。館を出たところで激しい雷雨に遇い、しばし足を止められましたが、間もなくおさまり、直ぐそばの地下鉄の駅から初めてメトロに乗り、無事にホテル・ソフテルパリの近くの駅に着き、自動改札を抜け、23階のホテル目指して帰りました。夜はせっせと絵葉書に向かいペンを走らせた次第です。日本への電話もホテルの自分の部屋からダイヤル即時で普通に会話できるのですよ。そして広いツインの部屋一杯に拡げた荷物の整理に大童のところへ、またしても遊び仲間のミセス内田の訪問で作業は中断といった状態でした。関西弁の彼女と広島弁の私達のお喋りをご想像ください。

   
ルーブルの圧巻は「ナポレオン戴冠式」

 パリ2日目の朝は早く9時にあのルーブル美術館を訪れ、長い行列の末、例のガラスで造られたピラミッド型の広場に辿り着くことができました。何しろじっくり鑑賞すると40日はかかるといわれるルーブルを半日!で見ようというのですから迷わないように、はぐれないようにしながら案内のAさんの後に従うしかありません。本物のヴィーナスが無造作に置かれてあるのにびっくりしたものの、360度鑑賞することができます。子供の頃から、雑誌や教科書でしっかりと教え込まれ、美術の時間にその石膏のデッサンに何度も泣かされた恨みと憧れの交差する像が、今手を伸ばせば触れそうなところに立っているのです。堂々とただ美しいと思う以外に語彙が見つかりません。
 広い館内は、巨大迷路のように、所狭しと飾った名画と彫刻の部屋が続き、見上げると高い天井には聖書物語からの数々のエピソードが描かれてありました。明るい館内は、フラッシュを使用しなければ撮影は許されます。圧巻はナポレオン戴冠式の絵でした。幅7メートルくらいはあったでしょうか。英雄の生涯の絢爛豪華な瞬間が描かれ、純白のビロードの服、真紅の同じくビロードの長く裾を引くガウンを纏い、黄金の冠を捧げるその姿の絵は、お后の纏う繊細で豪華なレースの裾引く衣装の質感とともに、今も脳裏に焼き付いています。居並ぶ侍従たちのそれぞれの表情とともに。ダヴィットの作とか。そして、忘れてはならないモナリザの前にも立ちました。残念ながら、不届きな輩からその身を守るため、彼女はガラスのケースの中から微笑んでくれ、私も思わず微笑み返した次第です。最後に、ルイ王朝の秘宝の数々、マリー・アントワネットのそれらに、例によって感嘆と溜め息をついてルーブルを後にしました。中国山地の、名もない小さな城下町の高校生だった頃、大原美術館でさえ遠い存在だった事を思うと、感無量といったところです。

   
モンマルトルの丘からムーランルージュへ

 再び自由行動となり、例のトリオ・コイサンズで、モンマルトルの丘へとタクシーを走らせ、坂にかかって渋滞に会ったものの無事到着。丘の上の、絵葉書でお馴染みのサクレ・クール寺院は、正午を告げる鐘の音を厳かに鳴らしながら、罪多き私達を迎えてくれました。階段も広場も一杯の人、人、人・・。パフォーマンスする人、ギター奏でる人、お喋りする人、ぼんやりしている人等等、パリ市街を見下ろしながら、思い思いのひとときを楽しんでいました。私達もその人の群れの中でしばらく憩いました。広い長い階段を降り切ったところに、本場の?回転木馬があり、そこも若者達で一杯。熱いカフェでのどを潤し、軒先で焼きながら売っていた、クレープ状の焼き菓子を粗末な紙に包んでもらい、はるか右手遠くにエッフェル塔を確かめながら、ぶらぶらと坂を降りました。メトロの駅を探しながら、地図を頼りに歩いたのですが、並木を挾んで道の両側は、例の怪しげな写真と看板の並ぶ一角となり慌てました。でも、ムーランルージュの赤い風車が見えてきたのでやれやれで、赤い風車をカメラに収め、そこからタクシーでひとまずホテルに帰り休憩。
 ベルサイユ宮殿へ行った人達が、地下鉄のストライキに遭って、時間に迫られてゆっくり見物できなかったと聞かされ、モンマルトルにして良かったと思いました。でも、フランス観光のハイライトといわれる宮殿ですから、今度来たときは是非いってみましょう。

   
夜はセーヌの観光遊覧船

 夜のセーヌ河を、観光船で遊覧するのも素敵ですよと、梶村さんから聞き、それではと出かけてみました。地図でバトー・ムッシュウの乗り場を教えてもらい、例の三勇士は疲れも忘れ、セーヌ河畔にタクシーを捨てました。レストラン付きの遊覧船は、残念ながら予約制なので普通のそれに、ビールとポテトチップスを買って乗り込みました。ざっと数えて200人位の乗客を乗せ、セーヌの左岸と右岸に照明を当てながら、ノートルダム大聖堂のあるセブ島を一周し、西はエッフェル塔のそばの橋までの、約一時間の遊覧を楽しみました。航行中、幾つかの橋をくぐる度に、ボワッー!と鳴る汽笛がおかしいと、又しても笑い転げた私達。後で判ったのですが、あの汽笛は、船の最上階の甲板にいる人達が、橋げたにぶつからないようにとの合図だったのです。途中行き交う、ディナー付きの豪華遊覧船の乗客のほとんどは、1か月以上も前から予約を取っての日本人とか。
 パリは今、革命200周年記念祭の最中。そしてエッフェル塔ができてから100年、照明の当たった塔に100の文字が浮かびます。昨日、シャン・ド・マルス公園から眺めた塔は、暮れなずむ逆光の中にスック!と立ち、一緒に何度もカメラに納まってくれました。そして今は、夜のセーヌの遊覧船の甲板から、私のバカチョンカメラのフラッシュを浴びておりました。最近TVのCFで、全く同じ風景が流れているわね。
 船を降りた頃から小雨が少し降ってきたので、雨宿りをかねて河畔のレストランに入り、ワインと軽い食事を取りました。日本と違って、別に星のマークのレストランでなくても、皆ゆっくりと食事を楽しんでいる様子でした。パリは夏時間の夜11時、日本はもう朝の6時で、そろそろ1日が始まるころです。雨も止んで、タクシー乗り場で待つことしばし、やっと拾うことができ無事ホテルに帰りました。レストランもタクシーも、全てチップが必要ですが、3人よればなんとか・・10%の計算はできたつもりです。とはいうものの、かなりのアバウト人間の3人の計算ですから、しっかりと日仏経済摩擦解消に協力したはずです。そうそうパリのタクシーは自動ドアではありません。

   
ド・ゴール空港から帰国の途へ

 パリ3日目の朝、短い日数でしたが、楽しい思い出を一杯に帰国の時間が迫りました。ロビーで、空港へ行く前の説明を聞き、迎えのバスの来るのを待ちました。ツアーの途中から、しっかりと「隠れ教頭」なる渾名を進呈され、密かに揶揄されていたS氏のお講義がまたしても始まったので、席をはずしました。ロビーの公衆電話から会社の主人にダイヤルしたのですが、あいにく彼は会議中で残念でした。係りの方に、元気で次の目的地のシンガポールに向かう旨の伝言を頼み、受話器を置きました。金額別に異なる穴にそれぞれのコインを入れ、初めに19を回し、音が変わると81を回し、市外局番の0を除いた数字を回していくと日本の相手に即つながるのですよ。
 シャルル・ド・ゴール空港はパリ北東郊外にあり、ヨーロッパ随一の広さとか。巨大な円形の空港ビルの中、サテライトから動く歩道に乗り、長いガラス張りの通路を上がると、出入国検査場。予定より1時間遅れの12時30分発、ローマ経由シンガポール行きのシンガポール航空機に搭乗、また訪れる事がありますようにと祈りながらベルトを締めました。
 世界でも屈指のテクニシャンと聞く、シンガポール航空のクルーは、2時間のフライトの後、滑るようにローマ空港に着陸。次の出発まで、暫く時間があるので機外に出て、身体を動かすことに努めました。そして16時05分、快晴のローマを後にシンガポールへと、長いフライトを覚悟して、再度シートベルトを締めました。

   
機上から長靴のイタリア半島

 幸いなことに窓際の席だったものですから、飛び立って間もなく、眼下にナポリはベスビオス火山がはっきりと見え、慌ててカメラを向けました。地図のとおり長靴の形をはっきりと地中海に浮べているイタリア半島、そしてマフィアの故郷シチリア島も半島に接して良く判り、ミドリちゃんにも無理やり見せたりして。穏やかな地中海を航行している船や、白いアルプス山脈まで見られるなんて夢にも思いませんでした。ましてナイル川のデルタ地帯、アラビア半島まで確認できたなんて。クルーと梶村さんに感謝。
 機が、高度を上げて雲の上の世界になってしまってからは、文字どおり寝食の時間です。500人近い乗客は、あらゆる人種で食欲旺盛。民族衣装の制服に身をつつみ、チャーミングに微笑みながらの、スチュアーデスの機内サービスの度に、食の細い私は最初からフィニッシュ!と叫びたいほどでしたよ。ワインか、ティーか、フルーツだけで十分の私。キャンセルした筈のディナーが、浅い眠りから覚めるとテーブルの上にあり、何故?と訝かるとると、近くの席の見知らぬ乗客が、彼女のが足りないとオーダーしてくれたらしいのです。困惑している私をご想像ください。
 雲の上から昇る、神々しいまでの朝日を見ることができてから、暫くして、眼下にマレー半島らしき風景を鳥瞰することができるようになりました。密林、ゴルフ場、農地、工場らしき建物や住宅街と、白い雲の切れ間からはっきりと見えるようになって、10数時間に及ぶ長いフライトから無事解放されました。

   
南国情緒のシンガポール

 シンガポールに着いて、最初の印象は蒸し暑い!の一言以外にありませんでした。入国の手続きを済ませ、クーラーの無い外に出て、迎えのバスにのる間のわずかな時間も、暑さに弱い私には、オー・ノーでした。無理もありません、爽やかな季節のヨーロッパから、いきなり赤道直下の街に降り立ったのですから。しかし、クリーン・アンド・クリーンのキャンペーンで、街は異様に美しく感じられました。なにしろ、ゴミを捨てたり、車内喫煙はたとえ観光客といえども、500ドルの罰金を徴収し、容赦はしないとのガイドさんの注意があったほどですから。南国情緒豊かな樹木の繁る、シーサイド・コースの広い道路を走り、ひとまずホテル・ニュー・オオタニに入り、休息をとりました。ホテルは大丸デパートとドッキングしておりショッピングも楽しめます。
 シャワーを浴び、暫くまどろみ、夏服に着替え、食事をとってツアー最後の観光に出かけました。発展途上国特有の、モダンな高層ビルとスラム街の対象を、ガイドが説明しながらバスは走ります。メモリアル・ホール、市政庁、セント・アンドリュース教会、チャイナタウンと車窓から観光し、マリーナ湾に向かって立つ像マーライオンに向かいました。
 頭はライオン、身体は魚という高さ8メートルの奇妙な白い像は、伝説に因って造られたシンガポールのシンボルで、運の良い私たちは口から水を吐くのを見る事ができました。そして、ジャングルもそのまま残して、広大な敷地に巨大な原生林や、国花の蘭の花が咲き乱れる植物園では、スコールに遭いそうになり、ミドリちゃんと私は途中からバスに引き返しました。ミセス内田は、シンガポールは見飽きていると終始バスに残り、仮眠状態のまま。極彩色の彫刻が四角錐の屋根を覆い、暑さをよりいっそう感じるような、ヒンズー教の寺院も訪れ、習慣にならって裸足で参拝するという経験もしました。ここで初めて、ツアー全員でハイ・ポーズと記念撮影。
 ところで私は、ホテルを出るとき上着に付けたブローチを落としていることに、まだ気が付いていませんでした。東南アジアを代表するといわれる、ショッピング街のオーチャード・ロードの一角にある免税店で、ネックレスを選びながら、鏡を覗いていてもです。余りアクセサリーに執着しない私が、パリで目に止まって求めた、ウエッジ・ウッドの淡いモスグリーンのブローチ。やっと気が付いたのは、最後の晩餐と称して、シーフード・センターに海鮮料理を食べに行く途中のバスの中。しまった!と思いましたが、今更、どうしようもない事、ケガをしたと思って諦め黙っておりました。後で写真を見ると、マーライオンを見物するときに散策した公園で落としたらしく、今にも外れそうになっているブローチが上着の胸元に写っています。惜しいことをしました。

   
竹下内閣の崩壊をシンガポールの夕刊で

 夜の帳が降り、スコールの後の涼風も吹いて、ビアガーデン風のテーブルで、名物の海鮮料理を頂きました。次々と中国風の料理が運ばれて来ましたが、美味しい物はあっという間に消えておりました。梶村さんの奢りのビールで乾杯しながら、お喋りと、グルメの楽しい一刻を過ごして空港に向かいました。そして、ガイドさんの読む4月26日のシンガポールの夕刊は、青木秘書の自殺と、竹下内閣の崩壊を報じていました。チャンギ国際空港は、広くて綺麗で、ロビーの絨毯も椅子もデラックス、ゆっくり休めます。でも搭乗前の待ち時間を持て余し、お互いに手荷物の番を交替しながら、免税店を冷やかし、結局又しても財布の紐を緩めておりました。私も重いからと敬遠していたお酒を買ってしまいました。それから主人に電話をして、はぐれないように長い動く歩道に乗り、大阪行シンガポール航空の乗客となりました。日本との時差は一時間です。0時35分離陸、フライトは何の障害も不安もなく、午前7時40分大阪空港に着陸、往路と違ってずいぶん短く感じられました。

   
関空に無事着陸、旅は終わって

 スーツケースを受け取り、税関もパスして到着ロビーに集合、全員無事に帰国できたことを喜び合いました。梶村さんや、神戸っ子のミセス内田、その他の皆さんにお礼とお別れの挨拶をして、解散しました。そして何はともあれ、元気な声をと主人に電話をしていると、嬉しいことに甥の民喜が現れました。私の帰国時間を主人から聞かされ、朝早いのに、ポーターの役目をしに来てくれたのです。スーツケースは宅配便に預け、リムジンバスで新大阪駅まで行きながら、段々と日本に帰って来ている実感が湧いてきました。午前中の講義に遅れないようにと、土産のスコッチ・ウイスキーと小遣いを渡して、民喜とは新幹線のコンコースで別れました。手荷物の重いミドリちゃんも小さな体で良く頑張って、下り「ひかり」に着席、やれやれと顔を見合わせ安堵の溜息をつきました。
 一昨年主人は、アメリカの新聞製作事情の視察と称して、2週間USA各地を訪れる機会に恵まれました。そのときの写真やレポートを見て、私も単純に外国の空気に触れてみたいものと思っておりました。それも白夜の北欧、カナディアン・ロッキーを列車で、そしてロマンチック街道かギリシャ辺りと、いささか夢のような漠然としたものでした。それが、最初にも書きましたように、思いもしない早い時期に夢が叶ってしまい、おびただしい写真や走り描きのスケッチを見ながら、信じられない思いです。冬の陽射しがガラス越しに暖かい縁側で、ふと目に止まった1枚の旅行会社のパンフレットと、良き同行者だったミドリちゃんと、快く初めての海外旅行を許可してくれた主人に感謝しながら拙い文を終わります。この次ぎは、きっとご一緒しましょうね。ごきげんようさようなら。             

             平成元年12月

                           
 山 田 花 子

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